豚飼雑感 2011年夏
梅雨の晴れ間に

  久しぶりのお天気。今日は仕事もひま日。のんびりしたいところだが、豚よりもはるかに手のかかる何かしらが両手両足にくっついてきて、のんびり屋さんの邪魔をする。「ぼくの趣味は昼寝でねぇ…」などと頭の中でぶつくさ言いながら、子どもたちに連行されて外に出ると、それはそれでいい気分になる。花が咲いて、蜂や蝶が飛んで、燕が巣を作り、なんてことはないうららかな六月だ。
 日常がありがたい。そう思ったりすること自体が異常なのかもしれないが、ふとしたことにそう感じてしまうこの頃だ。毎日豚に餌をやる。餌を持つ手の感覚が今までと少し違う。震災で餌をやることもできなくなってしまった東北の農家の事を聞いたからだ。おんぼろ豚舎の修理をする。ひどいもんだなぁ…ため息が出る。それでも家畜を置き去りに逃げなければならなかった農家の事を思うと、仕事の手を止めるわけにはいかない。
 今でも冴えている事は言うまでもないが、自分が今よりもう少しとんがっていた頃は、日常なんてものはまやかしだと突っ張っていた。「みんな誰かの作ったシステムに乗っかって、のほほんと暮らしているぜ。おれは踊らされたくないね!」みたいな…。彼に今の自分のしがなさを弁明するとしたら、何を日常と呼ぶかに気をつけなさい、といったところだろうか。日常の中に紛れ込んで、日常を蝕み、傷つけるものを、注意深く拒まなければならない。日常の顔をして、無関心やら、搾取やら、欺瞞やら、貪欲やらが君のまわりを取り巻いているとしても、それらを日常と呼んではいけない。何しろ生きていてこその日常だよ。暮らすことは、命が滞りなく流れていくことだよ。日常とはその川のほとりに植えられた木だよ。といったところだろうか。ダメか…。
 そうして一日遊び疲れた子どもが夜、眠りにつく時、その不確かな道を歩ませるのは何だろうか。砂場や、トカゲや、ブランコなど。それらの親しいものたちは、夕暮れ時の長い影の先に続く夜の闇みたいに、その時代の一切合切をつれてくる。一切合切の闇の中を、子どもは一人で、自分自身の夢の中へと、不確かな道を歩んでいく。親にできることは、安心しておやすみと、添い寝してやることが最も良心的かもしれない。しかしもしその闇の中に、戦争であるとか、自殺であるとか、貧困であるとか、放射性廃棄物であるとか、そういった親しからざるものを放り込んでいるのも、多くの親や、その同時代を生きる大人たちであるとしたら、添い寝をしてあげる他にも何かしてあげられることがあるのかもしれない。


豚飼雑感 | 20:44:20 | トラックバック(0) | コメント(0)

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